維新のくに情報

おすすめのまち歩きコース

和木町

和木町史跡めぐりコース(瀬田・関ヶ浜・小瀬地区)

メインイメージ

瀬田・関ヶ浜・小瀬地区の史跡をぐるっと散策。ちなみに小瀬は岩国市です。

サブイメージ

赤レンガ調のモダンな建物、和木町役場をスタートし、瀬田・関ヶ浜・小瀬地区の史跡を巡るコースです。
小瀬は岩国市ですが、お隣なので合わせてどうぞ。

①和木町役場 ②瀬田八幡宮 ③三分一源之丞碑(和木装束水道記) ④浄蓮寺(御用宿跡) ⑤疫神社 ⑥宗永寺(桂家菩提所) ⑦旧山陽道往還 ⑧吉田松陰歌碑

  • 写真

    ①和木町役場

    庁舎は、昭和50年11月17日に完成しました。
    裏山を背景にした赤レンガのモダンなこの建物で、設計は、当時既に世界的名声を確立していた黒川紀章氏。
    和木町のシンボルとして建築されて以来、現在も一向に古さを感じさせず、町行政の拠点としての機能を果たしています。

  • 写真

    瀬田八幡宮

    本殿は、県指定の有形文化財に指定されています。
    正徳5(1715)年吉川亀次郎(六代藩主経永)の命により修造されたもので、桁行4.06メートル、梁間3.97メートルの前室付三間社流造、向拝(本殿の正面の張り出し部分)一間、銅板茸の社殿です。神社建築の様式を継承し、しかも棟礼により年代の確実な、県下でも数少ない18世紀初頭の神社建築です。

    力石(瀬田八幡宮境内)

    江戸時代の若者が、若連中に入るとき「力石」によって力試が行われました。力石は3個あり大きいものから順に一番石、二番石、三番石といわれていました。一番石は重さが240キロ(60貫)もあったといいます。一番石には「脇村の住人都石源之進」と刻まれていて、この人以外に差し上げた人がなっかったものと思われます。

    写真

  • 写真

    ③三分一源之丞碑(和木装束水道記)

    正保元年(1644年)に建設された用水路を、天保年間に瀬田口から五本松まで延長し、開閉式堰提とうぐろ樋によって小瀬川から直接水を引き、和木・装束一帯の農地に活を与えた三分源之丞(天保11年・1840没)父子の顕彰碑です。源之丞はその完成を見ることなく亡くなりましたが、その志は嫡子権四郎によって継承され、見事に完成されました。

  • 写真

    ④浄蓮寺(御用宿跡)

    浄蓮寺は四境戦争(第二次長州征伐時)の御用宿でした。
    長州再征を必至と判断した岩国藩は、有事に備えるべく慶応2年(1866)領境に諸隊を配備しました。当寺には慶応元年(1865)から翌年10月までの約1年間、緒戦において勇名を馳せたしゅう翼団をはじめ、室木口先鋒の各隊が相ついで出張し定宿としました。

  • 写真

    ⑤疫神社

    その昔、疫病の流行はすべて疫神のなせる業と考えられ、約1200年前から諸国に疫神が祀られるようになったといわれます。御神体の古木(椨:たぶのき)は樹齢500年ともいわれ、毎年7月3日に藁で作った大蛇をこの御神木に巻き付け、お祓いをした後、当屋の人が獅子頭を被って部落をまわる、疫病追いの習俗(和木町無形民俗文化財)が今なお伝承されています。

  • 写真

    ⑥宗永寺(桂家菩提所)

    桂家は吉川藩の重臣です。慶長5年(1600)吉川広家に従って、出雲国富田から岩国へ移住しました。始祖桂元貞の次男に春房という人がおりました。春房は毛利氏の中国平定、更には文祿朝鮮の役にも出陣するなど武勇の誉高い武将です。
    元和6年(1620)没後、嫡子家好によって宗永寺に葬られ、以後永く桂家の菩提所となりました。

  • 写真

    ⑦旧山陽道往還

    山陽道(当時は西国街道もしくは西国往還と呼ばれていた)は都と九州の太宰府を結ぶ主要道で、江戸時代には五街道に次ぐ大きな街道と言われていました。参勤交代や長崎への奉行などで大名行列が、1週間に1度の割合で山陽道を通過していました。

  • 写真

    吉田松陰歌碑

    岩国市小瀬。
    かつてここは小瀬の渡しと呼ばれ、吉田松陰が安政の大獄で江戸へ護送される途中で詠んだ歌「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」が刻まれています。
    台石には「夢路にも―は明治維新の先達吉田松陰先生が、幕府の召還を受け、籠で護送されながら、岩国市小瀬川に差しかかり、防長二州と最後の別れをされるとき詠まれたものである。……」と刻まれています。

Googleマップ







  • LINEで送る

PAGE TOP