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防府市

大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公、楫取素彦・美和子夫妻の足跡と、2人が生きた時代の防府を知る

吉田松陰の妹・文(のちの美和子)と、文の後年の夫で、盟友吉田松陰の志を受け継ぎ、明治維新の推進と防府(当時の三田尻)の発展に尽くした楫取素彦。2人は、幕末から明治にかけての激動の時代を生き、防府で生涯を終えました。当コースを巡ると、2人が防府に残した足跡のほか、幕末の激動の時代の防府の様子も知ることができます。

①JR防府駅 ②大楽寺 楫取夫妻の墓所 ③野村望東尼墓碑 ④鞠生松原 小烏神社 ⑤英雲荘(三田尻御茶屋) ⑥三田尻御舟倉跡 ①JR防府駅

  • ①JR防府駅

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    大楽寺 (楫取素彦・美和子夫妻の墓)

    桑山東麓にある大楽寺には、平成27年の大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公である吉田松陰の妹・文(ふみ)こと美和子と、男爵楫取素彦夫妻の墓があります。幕末から明治にかけての激動の時代を生き貫いた2人は、晩年の30年間を防府で過ごしました。

    桑山招魂場・招魂碑

    慶応元年(1865)9月、御楯隊(御堀耕助総監)により修練場として造成された桑山に招魂場もでき、御楯隊、整武隊、三田尻海軍局など100余人の維新の志士達の招魂碑があります。招魂碑は、東上軍総指揮官だった山田顕義(日本大学、國學院大學創設者)により建立されました。

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    野村望東尼墓碑

    文化3年(1806)福岡黒田藩士の三女として生まれた野村望東尼は、安政6年(1859)、夫の病死後に禅尼となった後、高杉晋作ら勤王の志士との交流を深め、「勤王の志士の母」と慕われました。慶応3年(1867)、薩長連合の討幕軍東上を聞いた望東尼は、7日間防府天満宮に籠もり戦勝を祈願しましたが、その後病に倒れ、防府市の地で亡くなりました。桑山南麓にある野村望東尼の墓碑は、明治26年(1893)男爵楫取素彦の尽力により建立されたものです。

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    ④鞠生松原 小烏神社

    八咫烏を祀った鞠生小烏神社は、慶応3年(1867)11月、毛利内匠藤内を総大将、楫取素彦を参謀、山田顕義を総指揮官とする長州軍1,200人が討幕の必勝を祈願した神社で、長州軍は、祈願後船にて討幕の途につきました。

    華浦小学校越氏塾沿革碑

    私塾越氏塾は、医者の河野養哲によって萩の明倫館にさきがけ三田尻に開設されました。優秀な人材を多く輩出し、明倫館創設の際には門弟が学頭になるなど当時の藩の学問をリードし、楫取素彦も塾長相当として派遣されています。その後、塾の系譜は紆余曲折を経ながら華浦小学校へと受け継がれ、越氏塾が歩んできた経緯を刻んだ沿革碑は、楫取素彦が撰文して、明治41(1908)に建てられました。

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    英雲荘(三田尻御茶屋)

    三田尻御茶屋は、承応3年(1654)、2代萩藩主毛利綱広によって建設された藩の公館で、藩主の参勤交代や領内巡視の際、あるいは公式賓客の旅館にあてられたものです。
    幕末の文久3年(1863)8月には、京都の政変の難を逃れた三条実美ら七卿が相次いで三田尻御茶屋に入り、多くの勤王の志士を交え国事が談じられるなど、幕末から明治維新にかけて三田尻御茶屋は重要な役割をはたしました。

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    三田尻御舟倉跡

    三田尻御舟倉は、萩藩の水軍の本拠地で、藩主の御座船(ござぶね)や軍船が常置されたほか、船の建造や修理ができる設備も整えてありました。幕末期には御舟倉は海軍局となり、海軍学校も設けられたほか、慶応3年(1867)には、楫取素彦が倒幕のため諸隊参謀として三田尻御舟倉から出帆し、西宮に着陣しています。明治維新後、海軍局と海軍学校は共に廃止され、現在は通堀とこれに通じる水路の一部を残すのみです。

    男爵楫取素彦・美和子終焉の地

    楫取素彦・美和子夫妻は、明治26年(1893)、東京から防府に移住し、晩年を過ごしました。萩往還道沿いにある敷地は約500坪、庭には日本式の池、山桃、椎の大木、蔵もありましたが、現在は建物の一部を残すのみで、跡地には「男爵楫取素彦・美和子終焉の地」との案内板が建てられており、詳しい説明を見ることができます。

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  • JR防府駅

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