山口幕末維新塾

長州の幕末維新史

近代国家への幕開け

幕末という激動の時代。それは現代に生きる私たちには、およそ想像もつかないほど大変な時代であったことでしょう。
先人たちは、次々と襲いかかる困難に対し、ひるむことなく立ち向かい、明治という新たな時代を迎え、やがて近代国家を築きました。

さあ、その先人たちが歩んだ道を振り返ってみましょう。私たちの未来に、きっと大きな力を与えてくれることでしょう。

[萩城五層楼写真/山口県文書館所蔵]

幕末から維新へ 長州の略年表

長州藩 日本
嘉永6年
(1853)
吉田松陰、黒船来航を浦賀で目撃 ペリー、浦賀に来航
安政元年
(1854)
吉田松陰、海外渡航に失敗
安政3年
(1856)
吉田松陰、松下村塾で教授開始、久坂玄瑞、吉田稔麿、中谷正亮、松浦松洞らが入塾
安政4年
(1857)
高杉晋作、伊藤博文、前原一誠、山田顕義らが松下村塾入塾
安政5年
(1858)
日米通商条約調印
安政の大獄はじまる
安政6年
(1859)
吉田松陰処刑
万延元年
(1860)
桜田門外の変
文久2年
(1862)
高杉晋作、藩命により上海へ渡航
高杉晋作ら、イギリス公使館焼き討ち
寺田屋騒動
生麦事件
文久3年
(1863)
藩庁が萩から山口へ移る
長州藩、馬関で外国船砲撃、攘夷戦はじまる
伊藤博文ら長州ファイブが英国へ密航留学
高杉晋作、藩命により奇兵隊を結成
長州藩、8月18日の政変により長州尊攘派七卿とともに京都より追放される
薩英戦争
8月18日の政変(七卿落ち)
元治元年
(1864)
池田屋事件で吉田稔麿闘死
禁門の変で久坂玄瑞、寺島忠三郎ら戦死
四国連合艦隊が下関を砲撃(下関戦争)
俗論派の台頭、周布政之助自刃
禁門の変の責任者、益田右衛門介、國司信濃、福原越後の三家老が切腹
高杉晋作、下関で挙兵
池田屋事件
禁門の変(蛤御門の変)
第一次長州征討
慶応元年
(1865)
高杉晋作ら、大田・絵堂の戦いで勝利し反論が討幕に統一される 第二次長州征討令
慶応2年
(1866)
幕長戦争(四境戦争) 薩長同盟成立
慶応3年
(1867)
長州藩へ討幕の密勅が下る 大政奉還
王政復古の大号令
明治元年
(1868)
明治改元

幕末から維新へ 長州の事件簿

吉田松陰、松下村塾を主宰

米国密航に失敗し野山獄に投じられた後、実家杉家に幽閉の身となった松陰は、近隣の子弟に講義をはじめ、松下村塾を主宰することとなる。
塾では、身分や階級の区別なく学ぶことができ、儒学、兵学、史学などをはじめとした広範な学問が教授された。 書物の解釈に留まることなく、世の中で起きている時事問題を題材にした活発な議論も行われ、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文ら、幕末維新期に活躍し、近代日本の原動力となった数多くの逸材を輩出した。

長州藩、攘夷決行!下関戦争へ

幕府が攘夷実行の期限と定めた文久3年(1863)5月10日、各藩が日和見を決め込む中、長州藩は関門海峡を通航中のアメリカ商船を砲撃。
さらにフランス軍艦、オランダ軍艦に砲撃を加えるも、列強の報復に完敗した。
翌年、英・仏・蘭・米の連合艦隊の報復攻撃により全砲台を奪われた長州藩は、攘夷の不可能を悟る。 講和交渉には、藩から全権を委任された高杉晋作(正使)、杉孫七郎(副使)、渡邊内蔵太(副使)があたり、イギリス留学から急きょ帰国した井上馨、伊藤博文が通訳を務めた。

長州ファイブ密航留学

長州藩は、攘夷決行の一方で開国への備えも行っていた。
攘夷戦開始直後の文久3年(1863)年5月12日、海軍技術など西洋の進んだ技術を習得するため、伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三の5人の藩士をイギリスへ密留学させた。
伊藤と井上(馨)は、留学中、四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り急きょ帰国、藩を開国論に転向させるべく奔走した。 後に5人は近代国家建設に力を注ぎ、伊藤は内閣の、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、井上勝は鉄道の、山尾は工学のそれぞれ「父」とされている。

奇兵隊結成

列強との圧倒的な武力の差を見せつけられた長州藩は、高杉晋作に馬関(下関)の防備を一任。
攘夷戦で藩の正規兵の脆弱さに危機感を抱いていた高杉は、文久3年(1863)年6月、下級武士や庶民の中から志願者を募り、民兵組織「奇兵隊」を結成、初代総督となる。
奇兵隊は、江戸時代の幕藩体制下の武士団とは異なった新しい発想による軍隊であり、これを皮切りに、遊撃隊、集義隊などの「諸隊」が続々と誕生、やがて長州藩の主力軍として倒幕戦争の中心的役割を果たした。

8月18日の政変(七卿落ち)

京都で、長州藩を中心とする尊王攘夷派が勢いを強める中、尊王攘夷派排斥という共通の目的をもった京都守護職の会津藩、公武合体を推進する薩摩藩、公武合体派公家の3者が結び、文久3年(1863)8月18日に武力をもって御所を閉鎖。
長州勢と三条実美ら尊王攘夷派公卿を京都から追放するクーデターを断行した。
長州藩は堺町御門警衛の任務を解かれ、尊王攘夷派公卿7名とともに長州へ下った。
この政変により、朝廷に対する長州藩の影響力は一掃された。

禁門の変(蛤御門の変)

8月18日の政変で京都を追われ、巻き返しを図る長州藩では、来嶋又兵衛ら強硬派の暴発を高杉晋作や木戸孝允らの穏健派が抑えていた。
しかし、元治元年(1864)、新撰組により京都の尊王攘夷派残党が一掃される事件(池田屋事件)が起きると、藩内は一気に強硬派に傾き、三家老が諸隊を率い上洛。
当初慎重論を唱えていた久坂玄瑞も大勢に押され出陣。
この戦闘で、来嶋、入江九一が戦死、久坂は自刃した。御所に向けて砲撃した長州藩は、以後「朝敵」と呼ばれることとなる。 禁門の変の責任を取って、益田右衛門介、國司信濃、福原越後の三家老が切腹した。

功山寺挙兵

下関戦争後、長州藩内では幕府への恭順を唱える椋梨藤太ら俗論派が藩政の実権を奪還、正義派の弾圧を開始する。
こうした状況の中、高杉晋作は藩政府(俗論派)に反旗を翻す決意を固め、元治元年(1864)12月、遊撃隊や伊藤博文率いる力士隊、前原一誠ら約80名を引き連れ、功山寺に潜居する三条実美らに出陣の挨拶をした後、藩会所を襲撃。 奇兵隊など大半の諸隊は、当初時期尚早として出兵を断ったが後に行動を共にし、翌慶応元年(1865)1月の大田・絵堂の戦いで藩政府軍に勝利、藩論を武備恭順に転換した。

薩長同盟

政治的、感情的に激しく対立していた長州藩と薩摩藩の間で締結された政治的、軍事的同盟。
両藩とも提携の重要性を認識しながらも、過去のいきさつから二の足を踏む状況の中、土佐脱藩浪士の坂本龍馬が、長州藩の武器購入には薩摩藩が名義を貸して協力し、薩摩藩には長州藩の米を提供するという案により両藩を近づけ、中岡慎太郎とともに同盟成立に奔走。
慶応2年(1866)、京都の薩摩藩邸で、龍馬立ち会いのもと、長州藩の木戸孝允、薩摩藩の西郷隆盛らにより同盟が成立し、討幕への道が開けた。

第二次長州征討(幕長戦争、四境戦争)

慶応2年(1866)、総勢15万の幕府軍が、大島口、小倉口、芸州口、石州口の四方から総攻撃を開始。対する長州藩の兵力は、奇兵隊ら諸隊を中心とした約4千だったが、最新の洋式兵器を備え、大村益次郎らの軍制改革による精鋭が幕府軍を圧倒した。
各地で苦戦を強いられていた幕府軍は、将軍徳川家茂が急逝したため戦意を喪失、小倉城の陥落が伝わると事態の収拾に転じた。
こうして第二次長州征討は幕府軍の敗北に終わり、維新の動乱は全国をその渦中に巻き込んでいった。

脱隊騒動

藩の内証戦「大田・絵堂の戦い」、幕府軍と対峙した「幕長戦争」、討幕の戦い「戊辰戦争」などの激戦を制し維新の原動力となった奇兵隊をはじめとする諸隊は、明治2年(1869)、一部常備兵として選抜された者を除き、藩から解散を命じられる。
憤慨した兵士らはそれぞれの陣営を脱走、戦闘準備を整え藩政府に対し弾劾書や嘆願書を突き付け、藩庁を囲み要求を通そうとした。
しかし、明治3年(1870)、木戸孝允率いる常備軍によって鎮圧され、捕えられた首謀者らは藩内各地で厳しい処分を受け、刑死者は130余名を数えた。

萩の乱

明治9年(1876)、萩で、不平士族が起こした明治政府に対する反乱。主導者である前原一誠は、松下村塾門下生で、新政府の参議、兵部大輔などを歴任するが、新政府の政策と意見が合わず辞任、萩に帰る。
明治7年(1874)の佐賀の乱の際には、山口県内士族の鎮撫に努めたが、2年後、廃刀令や秩禄処分の施行により士族の不平不満が爆発、熊本の敬神党、福岡の秋月党が相次いで挙兵したのに呼応し、萩の明倫館を拠点に挙兵するも失敗。前原は萩で斬首された。

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