山口幕末維新塾

吉田松陰と松下村塾

生年: 天保元年(1830)8月4日
没年: 安政6年(1859)10月27日

萩藩士杉百合之助の次男として生まれ、6歳で山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎます。幼少時から叔父玉木文之進の厳しい指導を受け、19歳で藩校明倫館の兵学師範として独立します。九州、関東、東北、関西へと全国を遊歴し多くの人々に接して勉強を重ねます。
25歳の時、国法を犯し伊豆下田で米国への密航を図るも失敗し、萩の野山獄に投じられます。その後、実家杉家で幽囚の身となり、松下村塾を事実上主宰。書物の解釈に留まることなく、世の中で起きている時事問題を題材にした討論を行い、後に第一線で活躍する多くの人材を育てます。 井伊直弼による安政の大獄で処刑されました。

[絹本着色吉田松陰像(自賛)/山口県文書館所蔵]

松陰人物伝

天才少年現る!わずか11歳で御前講義

藩士杉百合之助の次男として生まれた松陰は、叔父吉田大助の急死により6歳で吉田家の家督を継ぎます。吉田家は藩校明倫館の山鹿流兵学師範をつとめる家柄であったため、もう1人の叔父の玉木文之進は、松陰を一人前の兵学者に育て上げるべく厳しく教育。その甲斐あって、10歳の幼さで藩校明倫館の教壇に立ち、11歳の時には藩主毛利敬親の御前で兵学の講義を見事に成し遂げ、秀才ぶりを称賛されました。

さあ、全国遊歴の旅へ!

短い生涯の中で広く全国を歩いた松陰は、21歳の時の九州遊歴出発を最初に、西は熊本・長崎、北は青森・津軽の竜飛岬、四国、佐渡ヶ島へも旅しています。22歳の時に関所手形を持たず東北遊歴に出発、翌年脱藩の罪で士籍を奪われますが、藩主の温情により父杉百合之助の育みとなり、10年の諸国修行を許されます。ほどなく萩を発った松陰が再び江戸へたどり着いたのは、ペリー艦隊が浦賀沖に姿を現す2週間前でした。

黒船来航!松陰のとった行動は?

松陰24歳の時、ペリーが米艦4隻を率いて浦賀に現れ、日本の開国を求めます。黒船を見て列強の脅威を実感、衝撃を受けた松陰は、「西洋に対抗するには自ら外国を見聞し西洋の進んだ技術を学ぶしかない」と考えます。翌年、黒船が再来航すると、松陰は門弟の金子重之助と共に黒船に乗り込み、米国へ密航させて欲しいと交渉しますが、失敗。自首した松陰らは、幕府によって萩へ送られ、投獄されました。

獄中でもやっぱり先生

米国密航に失敗し萩の野山獄に投じられた松陰ですが、学問への意欲は旺盛で、在獄1年2ヵ月の間に読んだ書物は618冊にのぼります。一方、松陰は、無気力な囚人たちを励まそうと、獄中にも関わらず勉強会を開き、囚人たちと盛んに交流しました。自らが一方的に指導するのではなく、俳諧や書道などそれぞれが得意な分野を指導し、共に学びあうというこの勉強会は、囚人たちに生きる希望を取り戻させました。

吉田松陰、松下村塾を主宰

野山獄を出ることを許され、実家杉家に幽閉の身となった松陰は、近隣の子弟に講義を始めます。松陰が主宰した松下村塾では、学習意欲があれば身分の区別なく誰でも学ぶことができました。決まった教科書も時間割もない自由な雰囲気の中で、塾生が来れば昼夜を問わず授業が始まり、教科書は塾生の希望に応じて選ばれました。書物の解釈に留まることなく、時事問題を題材にした活発な議論も行われていました。

2通書かれた松陰の遺書

安政の大獄で処刑される前日、松陰は遺書「留魂録」を書きあげます。この中で松陰は、塾生たちに向け、獄中での出来事や取り調べの様子、死と向き合っていく過程、後の国事について述べており、その志は塾生たちへしっかりと継承されていきました。
留魂録は、塾生たちに回し読みされるうち、いつしか所在不明となってしまいますが、明治9年、松陰門下の野村靖のもとへもう1通の留魂録を持った沼崎吉五郎が現れます。松陰は、確実に塾生たちの手に届くよう2通の留魂録を作成し、1通を同獄の沼崎に託していました。その後流罪となった沼崎は、釈放後、松陰の遺託を果たしたのです。松陰神社に現存する留魂録は、17年もの間沼崎が守り抜いたものです。

吉田松陰 略年譜

年齢 出来事
天保元年
(1830)
1歳 8月4日、藩士杉百合之助の次男として萩松本村に生まれる
天保5年
(1834)
5歳 山鹿流兵学師範の叔父吉田大助の仮養子となる
天保6年
(1835)
6歳 吉田大助の急死により吉田家の家督を相続する
天保10年
(1839)
10歳 藩校明倫館で初めて山鹿流兵学を教授する
天保11年
(1840)
11歳 藩主毛利敬親の御前で「武教全書」を講義する
嘉永元年
(1848)
19歳 藩校明倫館の独立の師範となる
嘉永3年
(1850)
21歳 九州遊歴に出発(長崎、平戸、熊本等を訪れる)
嘉永4年
(1851)
22歳 藩主に従って江戸へ赴き佐久間象山らに入門する
東北遊歴に関所手形を持たずに出発
嘉永5年
(1852)
23歳 脱藩の罪により士籍を削除され父杉百合之助の育みとなる
嘉永6年
(1853)
24歳 諸国遊歴に出発(近畿遊歴後、江戸着)
黒船来航を浦賀で目撃
ロシア行きを図り長崎へ行く
安政元年
(1854)
25歳 金子重之助とともに下田で米艦乗り込みに失敗、幕府に自首
萩の野山獄へ投じられる
安政2年
(1855)
26歳 野山獄を出獄し生家の杉家で蟄居の身となる
安政3年
(1856)
27歳 杉家の幽囚室で教授を開始
安政4年
(1857)
28歳 杉家宅地内の小舎を改修し8畳1間の塾舎とする
安政5年
(1858)
29歳 塾生増加により塾舎を増築
萩の野山獄へ再び投じられる
安政6年
(1859)
30歳 江戸へ護送、斬刑

松下村塾

  • 松下村塾 外観
  • 松下村塾 内観

幕末期に吉田松陰が主宰した私塾。もともと松陰の叔父である玉木文之進が、天保13年(1842)、自邸で開設したのが始まりで、ついで松陰の外叔にあたる久保五郎左衛門が継承しました。
安政4年(1857)、松陰がこれを継ぎ、実家である杉家隣りの小屋を改装し、8畳1間の塾が開かれました。
塾では、身分や階級の区別なく学ぶことができ、儒学、兵学、史学などを始めとした広範な学問が教授され、ただ講義を聴くだけでなく、活発な議論もくり広げられていました。
松陰が主宰したのはわずか1年あまりの間でしたが、幕末維新期に活躍し、近代日本の原動力となった数多くの逸材を輩出しました。

  • 松下村塾 内観
  • 松下村塾 外観

松下村塾の塾生たち

久坂 玄瑞 高杉晋作と共に松下村塾の双璧といわれ、長州藩尊王攘夷派を指導した。松陰の妹、文と結婚し松陰を助けた。禁門の変で自刃。
高杉 晋作 久坂玄瑞と共に松下村塾の双璧といわれる。奇兵隊を創設。下関で決起し藩是を武備恭順とした。幕長戦争では小倉口で指揮を執った。
吉田 稔麿 自宅近くに住む吉田松陰に師事。脱藩して江戸に赴き尊王攘夷運動に奔走。情報収集し松陰に伝える。
池田屋事件で命を散らす。
入江 九一 松下村塾に学び吉田松陰に深く傾倒。久坂玄瑞らと外国船を砲撃。高杉晋作を助け奇兵隊の結成に尽力した。禁門の変で戦死。
伊藤 博文 来原良蔵や吉田松陰に師事。長州ファイブの1人として英国へ密航留学し、帰国後、四国連合艦隊下関砲撃の戦後処理に奔走。初代内閣総理大臣。
山県 有朋 藩命で赴いた京都で尊王攘夷論の影響を受け、帰国後松下村塾入門。奇兵隊軍監となり頭角を現す。近代陸軍の基礎づくりに尽力した。第三代内閣総理大臣。
山田 顕義 藩校明倫館、松下村塾で学ぶ。大村益次郎から西洋兵学を学び、戊辰戦争で天才的兵術を発揮。初代司法大臣となり法治国家建設のため尽力。
野村 靖 松下村塾で学ぶ。幕長戦争では芸州口に出陣。維新後は岩倉使節団の欧米視察に随行。第2次伊藤内閣内務大臣。晩年は松陰思想普及に努めた。入江九一の弟。
品川 弥二郎 松下村塾で学ぶ。松陰没後は攘夷運動に参加、同志と御楯隊を組織し藩内戦などで活躍した。内務大臣を務めた後、信用組合の普及に尽力。
前原 一誠 松下村塾で学ぶ。戊辰戦争では長岡城攻略に力を注いだ。維新後は政府要職を歴任するも新政府の政策と意見が合わず辞任。萩の乱で不平士族を率い挙兵、処刑された。
寺島 忠三郎 藩校明倫館、松下村塾で学ぶ。京都に上り、攘夷運動に奔走。禁門の変で浪士隊を率いて戦うも敗れ、久坂玄瑞と共に自決した。
松浦 松洞 松下村塾で学ぶ。江戸へ送られる直前の松陰の肖像を描いた。久坂玄瑞らとともに京都へ上り、公武合体論を主張する長井雅楽暗殺を計画するも失敗。京都で自刃。

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